2013年10月5日土曜日

【タンタンの暴言】コミュニケーションツールとしてのゲームを創りたいのだ



以前、この「タンタンの暴言」で商業と同人の自由の話を書いたトコロ、様々な方から反響をいただきました。

でね、その後も色々と考えたり、ことあるごとに議論したりしていたわけですが、どうにも話が食い違うことがある。

会社がどうこうとか、開発費や利益がどうこうとか、そういったビジネス的な区分けの前に、「創りたいゲームの方向性」で世界を分けないから話がもやけるのかなぁと思ったので、メモ代わりに書いておこうと思います。

そんなにまとまってないので、後日改めて続きを書くかもしれません。



ゲームクリエイター、という言葉を使った時、なんとなく一番最初に浮かぶのは、作家性のある、漫画家や、小説家、に近い属性の人間だろうと思います。

つまり、「インタラクティブな小説」「インタラクティブなマンガ」と言えるような、デジタル時代に新しく生まれた、「作家性のあるゲーム」というものを創りだす人間が、ゲーム作家=ゲームクリエイター、というイメージ。


それは真実。

僕の好きな「風ノ旅ビト」とか、木村さんの「チューリップ」とか、誰かが創りだした、本や童話の世界、つまりクリエイターの世界に入り込むことができるゲーム。

小説やマンガや映画といった旧来のメディアでは、それを受け取るだけだったのに対し、ゲームという文化によって、ユーザーがインタラクティブにそこに参加できるようになった。

それはものすごく素敵なことです。



でね、ゲームには、もう一種類、別の種類、というか異なった価値基準があるんですね。

もしかしたらこれはもう、別の名前で分けたほうが良いくらい、違う。


それが「コミュニケーションツールとしてのゲーム」です。


例えば、将棋囲碁麻雀といったゲームは、最初に創った誰かの作家性というよりは、そのゲームの奥深さや、コミュニケーションツールとしての価値を認められ遊ばれ続けているゲームです。

僕が好きなボードゲームや、TRPGTCGいったアナログゲームとも、上記のものに比べるとやや作家性が強いとはいえ、基本的には「コミュニケーションツールとしてのゲーム」に属します。

ビデオゲームのジャンルで言えば、アーケード格闘ゲームのような対戦ゲームは、作家性よりもむしろコミュニケーションツールとしての価値が重要視されます。モンスターハンターのようなCOOPゲームや、MMOのゲームデザインにも、そういった価値基準が強く影響します。


こういったゲームの特徴として、ゲームクリエイターよりもゲームプレイヤーがクローズアップされることが多い、という点があります。

将棋の羽生名人や、ストリートファイターのウメハラさんなどは、その典型的な例でしょう。


コンピューターゲームの場合は、「作家性があり尚且つコミュニケーションツールとして優秀」というものが多くあるので、ぱっきりどのタイトルがどっち陣営、という分類の話をするのはナンセンスですが、まあ、試しにざっくりそう分けてみよう、というトライです。



でね、僕が今、創りたいと思っているのはどっちかと言えば、圧倒的に後者なんですね。


それには明確なキッカケがあって。


「ラクガキ王国」のファンのことを、ゲーム中の言葉を使って「クロッカー」と呼んでいるのですが、発売から11年以上経っているにも関わらず、クロッカー友達の繋がりはとても強く、オフ会をやったり、みんなで旅行したり、ゲームを媒介にした良い友達関係を続けています。
「ラクガキ王国」の世界の中で作家性を表現するのは個々のクロッカーであって、だからこそ11年経っても遊び続けてもらえているのだと思います。


「ラクガキ王国」のユーザーに対してゲームクリエイターが提供したものは、「同じクラスタの人間を集まらせるためのキッカケ」です。それに大きな価値があったのだと思うのです。


また、ロードオブヴァーミリオンⅢのイベントでユーザーさんによく言われるのは「ゲーセンで気の合う仲間と出会えてヴァーミリオンにはとても感謝しています」という言葉です(この話はとてもよく聞きます)。
ゲームの世界観や表現というものはきっかけにすぎず、対戦や情報交換を通じた優秀なコミュニケーションツールとしての評価をしてもらったのだと感じます。


作り手の手を離れた瞬間、遊んでくれる人たちが主役になるゲーム

僕は、そんな「場」となるゲームを創りたいなぁと(少なくとも今は)思っているのです。



先日の「ゲームの自由」のエントリーの後、商業は自由だというけれど丹沢は自分の表現ができているのか?、といった質問を(どっかで、どこだか忘れた)投げかけられたのですが、僕の創りたいベクトルはこっちですよ、ということを明確にしておいたほうが良いかなと思ったので書いておきます。

そういうわけで、今僕がやりたいことを実現するためには、商業しかないのよ。インディーで築くのはちと、しんどい。


珍しく風邪引いてしまって布団の中で書いたので、乱筆乱文ご容赦ください!


ではまた来週!

6 件のコメント:

  1. 風邪は寝て治すものなので、安静にしていてくださいね。

    匿名だから遠慮なく指摘しますけど、ゲームという遊びでプレイヤー同士が仲良くなる
    というデザインって実は最初から矛盾しているんですよ。 何故ならプレイヤーは皆
    プレイヤーとして“ゲームと”向き合っているからです。  他のプレイヤーとは向き合っていません。
    その矛盾をあえて具現化しようとする行動自体が、非常に自由な発想だと言えます。

    その発想そのものを尊重する事は難しいですが、それが茨の道と知っていて
    進もうとする貴方を応援する事が出来る人は多いでしょう。 Enjoy your play!

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    1. こういう議論ができるから、書いてよかったと思いました。

      では、あなたのおっしゃるゲームにテーブルトークRPGは含まれますか?人狼は含まれますか?たぶんあなたのイメージされている「ゲーム」は、一部のゲームに過ぎないと思います。

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  2. うーん、安静にしていて欲しかったのにw

    ゲームとは文字通り遊びであって、ルールの一種です。 プレイヤーはルールに従います。
    あらゆるゲームを遊ぶ事は、理性的な判断であり、それは自制という言葉で表せます。

    おそらく丹沢さんは、その自制を通じて人と交流する大切さを説きたいのだと思いますが、
    自制という前提がなくても、人間は仲良くなれるという事実があります。 それを
    表現するのが、ゲームに限らず色々な創作が表現してきたものだと私は考えています。

    『自制によるコミュニケーションの円滑化を表現したゲーム』を創る事そのものが、
    『ゲームを楽しく遊ぶ為のゲーム』みたいな二重表現のようなデザインになります。

    もちろんそういうゲームを創りたいと思う事自体を咎める理由はありません。
    しかし、現実そういうゲームを創ろうとする人が歴史上少なかったのは、
    それなりの理由があるはずです。

    しかしそれをあえて選ぶのも、自由の賜物です。

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  3. 布団の中は思索に向いているので、ゴロゴロしながら書いてます(笑
    雑に返してしまったので、返答頂けないかなーと思ったんですが、ありがとうございます!
    嬉しいです。

    コミュニケーションツールとして設計したゲーム、という切り口でゲームを創ろうというクリエイターは確かに少ないですね。僕の周辺には多いですが、それは単に僕がそういう人と気が合うので自然と集まっているとか、そもそもそういう人がアーケード界隈に多いのが原因だと思っています。
    仰るとおり、人間はそんなものがなくても仲良くなれますが、「ラクガキ王国」がなければ絶対出会えていなかった日本全国から集まったコミュニティや、ゲーセンに特定のゲームが存在したお陰でできたコミュニティというものを現実に見ると、その存在に一定の価値があると思うのです。それは「イバラの道の先にある夢」ではなくて「現在進行形で達成できている夢」だったりします。

    匿名さんの仰られていることで、ちょっとだけ違うかなーというのは、僕は教育者ではないので「自制を通じて人と交流する大切さを説きたい」という高いレベルに意識は置いていないです。あくまで「そういう場を作って自分の考えたルールでみんなが楽しんでいるのを見る」ことに自己実現の方向性を向けているだけです。

    子供のコミュニティにおいてガキ大将が何かルールを決めてその中で遊ぶ、という現象がありますが、その延長だと思っています。僕自身がそういうタイプだったのでw

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  4. とにかく私の主張は丹沢さんはすでに自由を体現した人だ、という事ですね。
    それを羨望する人も多いでしょう。 ですから、遠慮なく突き進んでください。

    七つコロビ、八つで起き 痛くても笑えば未来が変わる~

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  5. どうも。丹沢さん。れにうです。上手く書き込めるかどうか分かりませんが、それでも書き込ませていただきます。
    ゲーセンはコミュニケーション能力が高い人がいるから、コミュニケーションツールとして見えるのだと思います。
    匿名さんが仰った、プレイヤーとしてゲームと向き合っていることには同意ですが、他のプレイヤーと向き合っているときもあると思います。それはゲームを通して他のプレイヤーを連想するときです。
    それと『ゲームを楽しく遊ぶ為のゲーム』は『ゲームを楽しく遊ぶ為のコミュニケーションツール』に変えたほうが、しっくり来ます。なぜなら、それはゲームではなく、ただのコミュニケーションツールとして認識するものだと思うからです。
    ラクガキ王国にも触れます。
    たしかに切っ掛けはゲームですが、コミュニケーションツールとコミュニケーション能力があってこその集まりであって、ゲームの枠組みから逸脱していると感じます。

    ここから認識に大きな差が出ることを言います。
    ラクガキ王国をプレイしているときはゲームと向き合っています。それはゲームプレイヤーです。ペイントツールとしてラクガキ王国を使用していると、それはイラストレーターになります。外部の媒体を利用して、ラクガキ王国で作成したイラストを公表する。どんどんゲームから離れています。
    ラクガキ王国はコミュニケーションツールとしてのゲームではなく、コミュニケーションツールではないゲームをコミュニケーションツールとして使われたゲームだと認識しています。
    話を遡らせます。作家性があり尚且つコミュニケーションツールの話です。
    言い方を変えるなら、多人数で尚且つプレイヤーの腕次第で状況が左右されるゲーム。コミュニケーションツールを内部か外部に備え、プレイヤーの腕次第で状況が左右されるゲーム。
    根本ではゲームが存在しますが、別途コミュニケーションツールを抱えないと成立しません。
    これも言い方を変えます。
    ゲームがコミュニケーションツールを抱えれば、すぐにコミュニケーションツールとしてのゲームになると思います。
    ただし、どんなにコミュニケーションツールを抱え込んだとしても、コミュニケーション能力がある人がいなければ成立する実態はないでしょう。

    まったく別の話をします。
    自分はゲームをミュージックプレイヤーとして使うことがあります。
    それはミュージックプレイヤーとしてのゲームではないですが、そういう機能があるので、そのように使っています。
    イラストの鑑賞を備えたゲームもあります。イラスト鑑賞のためのゲームです。もちろん、そういう趣旨でのゲームではないと思いますが。
    また別の話をします。
    ゲームにSEがつくと、良くなったように感じます。このことはアニメでも感じます。
    しかし、SEはゲームでもアニメでもありません。
    コミュニケーションツールも同じです。ゲームの一部として含まれはしても、ゲームそのものにはなりえません。

    それらを踏まえて先の話をします。
    丹沢さんは同じクラスタの人間を、何人単位で集まらせる想定をしているのでしょうか。
    きっと丹沢さんは、もっとワイワイしたいと答えるかもしれませんが。
    まったく丹沢さんのことを知りません。
    それから、ゲームに添えるコミュニケーションツールの話です。
    今はメールやツイッター、ゲーセンやニコニコでのコミュニケーションやスカイプなどの音声通信など多彩なコミュニケーションの場があります。
    どれを抱えるかもありますが、ゲームのどこで、どのタイミングで添えるか考えるのも発想の幅を拡げるものだと思います。
    しかしながら、光回線ができたとはいえ、もっと通信周りには進化を伴ってほしいところです。
    締めとして、今はゲーセンが勝ちですが(ポリポリクラブ・第二十回の話)、いつか変わる日が来るかもしれません。最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

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